ヤマサちくわの歴史を語る時、なくてはならないものが鉄道と豊橋駅。 終戦後、日本初の民衆駅となった「豊橋駅」とともに歩んできたヤマサちくわの足あとを 六代目・佐藤元彦(現相談役)が語ります。 |
ヤマサちくわ相談役 佐藤元彦 |
遠距離移動の交通手段が鉄道全盛期だった昭和初期、ヤマサちくわは豊橋駅構内での販売により、その名を東西に知られるようになりました。ちくわの駅売りを始めたのは、五代目・佐藤利雄。江戸時代からの家業から、近代的な株式会社組織へとヤマサちくわを育て上げた「近代ヤマサの父」です。
「まだCMなどなかったその頃、『東京から大阪まで、多くの人にヤマサちくわのことを知ってもらうためには、鉄道にのせて評判を広めるのが一番良い』と先代は考えた様です」と相談役。 竹の皮二枚にちくわ10本を包んで紐をかけたものをいくつも箱に入れ、汽車がホームに入ってくると「ちくわ、ちくわ」と声を張り上げながら売って回ったそうです。 |
昭和11年のヤマサちくわ本店
様々な店が軒を連ねる豊橋市魚町にありました。
完成して間もない民衆駅第一号「豊橋駅」
豊橋駅前 昭和36(1961)年
現在は十数種類あるちくわも、終戦当時は1本10円、15円、20円の3種類。それもバラ売りで、欲しい数だけ包んで買う様式でした。「包む時、当時はテープなど使わずに紐だけでくくるんだから、なかなかコツが要りましてね。バラけないようにしながら5本の指だけで手早くそれをやっていたんだから、器用なものだったと思いますよ」と、当時売店で一日にいくつも包んでいたという相談役は語ります。 以前は白い包装紙もありましたが、現在は鯛の絵と「創業文政十年」と印字された緑の包装紙だけになっています。個別包装も進んで扱いやすくなった商品ですが、包む時の想いは味と同じく”昔も今も変わらぬまま”のヤマサちくわです。 |
豊橋駅前 昭和45年
現在の豊橋駅
豊橋駅コンコース
(掲載日:2010年11月)