ちくわ・かまぼこの歴史は古く、神功皇后が三韓渡航の途中、九州生田の杜(現在の小倉)で、鉾の先に魚肉をつぶしたものを塗りつけ、焼いて食べたという伝説があります。この食べ物が蒲の穂(がまのほ)によく似ているところから、「蒲穂子」と呼ばれ、「蒲鉾(かまぼこ)」に転じたといわれます。ところが、蒲の穂の姿は現在のちくわとそっくり。その昔、「蒲鉾」といわれていたものが、ちくわの始まりだったということなのです。 文献に登場するのは室町時代になってから。享祿元年(1528年)に著された「宗吾大双紙」には「かまぼこはナマズ本也、蒲の穂に似せたるなり」と記されており、貞享元年(1684年)に著された「雍州府志」には、「はも肉を取って細敲し、石臼にこれを摺り塩を加へて、尺許の円竹茎を心となし、外面円長にこれを塗り、焼いてこれを食す、これを蒲鉾という、されば則ち竹輪は古式にして、杉板に貼るところのものは近世の製也」と書かれています。 昔は、大名、旗本しか食べられないほど高級品だった蒲鉾も、江戸時代中期以降には、武士、商人、町人へと順次広まっていきました。幕末になると下級武士は貧しくなり、旅先等では蒲鉾が食べられなくなりました。一方、商人は金持ちになり、蒲鉾ばかりか贅沢な食事をするまでになっていました。そんな商人たちを見て、「下級人の分際で、武士の魂である鉾を食べるとは、何ごとぞ」と嫌がらせを言う武士がいたのだそうです。 そこで、庶民は、武士に気兼ねして、蒲鉾と呼ばれていたちくわの切り口が竹の様であるところから、竹輪と書き、武士にはわからない隠語としてちくわと名づけました。いつしかちくわの方が、昔からの正式の呼び名のように定着し、板に付け蒸した板付蒲鉾が蒲鉾と呼ばれるようになったのです。 |
吉田宿(豊橋)で魚問屋を営んでいたヤマサちくわの祖先佐藤善作が、四国の金比羅様に代参した時のこと。その地で名物として売られていたのが、ちくわでした。なかなか目新しく、食べてみると味もいい。海産物に恵まれた地である豊橋地方は原料となる魚には事欠かない、善作は帰国するとさっそく製造にとりかかりました。 ちくわの販路は、当時塩を運んでいたルート「塩の道」を使い、魚類が不足している信州にも広げられました。そこで生まれたのが「塩漬けちくわ」です。徒歩か馬で物を運んでいた時代のこと、ちくわを一日でも長く保たせるために、塩を使ったのです。ちくわの穴に塩をつめ、さらに上から塩をふった「塩漬けちくわ」は、豊橋のちくわ発展の源となりました。このちくわは谷川の水に一昼夜ひたして塩気を抜いたそうですが、ほどよい塩加減で大変な人気でした。 ※平成9年、創業170周年を向かえたヤマサちくわでは、記念行事として「塩の道」キャラバンを実施しました。 吉田(豊橋)の地は、かって伊勢の領地とされるなど、魅力的な土地でした。そのひとつは、豊富な海の幸に恵まれていたこと。今から450年ほど前の時代(天文6年)、今川義元公隆盛の頃、伊良湖より東海道・新居の宿にいたる片浜十三里の海で獲れた魚は、必ず熊野権現神社境内で売り買いしなければいけないと決められていました。そのため魚類が一定の場所に豊富に集荷され、大いに賑わったのです。 |