ヤマサちくわの歴史を語る時、なくてはならないものが鉄道と豊橋駅。終戦後、日本初の民衆駅となった「豊橋駅」とともに歩んできたヤマサちくわの足あとを六代目・佐藤元彦(現相談役)が語ります。
ヤマサちくわ相談役 佐藤元彦
若い頃より売店、工場と現場主義で新時代に挑んできた六代目。
遠距離移動の交通手段が鉄道全盛期だった昭和初期、ヤマサちくわは豊橋駅構内での販売により、その名を東西に知られるようになりました。ちくわの駅売りを始めたのは、五代目・佐藤利雄。江戸時代からの家業から、近代的な株式会社組織へとヤマサちくわを育て上げた「近代ヤマサの父」です。「まだCMなどなかったその頃、『東京から大阪まで、多くの人にヤマサちくわのことを知ってもらうためには、鉄道にのせて評判を広めるのが一番良い』と先代は考えた様です」と相談役。竹の皮二枚にちくわ10本を包んで紐をかけたものをいくつも箱に入れ、汽車がホームに入ってくると「ちくわ、ちくわ」と声を張り上げながら売って回ったそうです。この時生まれたのが「豊橋名産ヤマサのちくわ」という言葉。「先代は、名物は原料がその土地でとれなくてもいい。地域で原料がとれるものを『名産』と呼ぶ。ヤマサのちくわは原料も技術も当地で生まれ育っている。だから『豊橋名産』なのである、と言っていました。」
昭和26年6月、終戦を目前に豊橋は大規模な空襲を受け、豊橋駅はそのほとんどが焼失。戦後の復興の声が高まるのと同時に、市と商工会議所の共同で「豊橋民衆駅復興期成同盟」が結成され、昭和25年、日本(国鉄)初の民衆駅「豊橋駅」が誕生します。駅舎内に商業施設を設ける現在の「駅ビル」の元ともなった造りで、ヤマサちくわも一階の商店街に、売店でその名を連ねます。「私も入社してからすぐ駅売店に勤めました。朝6時頃、魚町の本店から駅へ向かう自転車の荷台に、作り立てのちくわを詰めた木箱を積んで運んだものです」と相談役。「ホームでの立ち売りも続いており『約束していた土産をホームで買おうとしたが、売り切れだったから列車を1本遅らせた』と、嬉しい声を頂くこともありました。」と当時を懐かしく振り返ります。
昭和11年のヤマサちくわ本店
様々な店が軒を連ねる豊橋市魚町にありました。
完成して間もない民衆駅第一号「豊橋駅」
豊橋駅前 昭和36(1961)年
現在は十数種類あるちくわも、終戦当時は1本10円、15円、20円の3種類。それもバラ売りで、欲しい数だけ包んで買う様式でした。「包む時、当時はテープなど使わずに紐だけでくくるんだから、なかなかコツが要りましてね。バラけないようにしながら5本の指だけで手早くそれをやっていたんだから、器用なものだったと思いますよ」と、当時売店で一日にいくつも包んでいたという相談役は語ります。以前は白い包装紙もありましたが、現在は鯛の絵と「創業文政十年」と印字された緑の包装紙だけになっています。個別包装も進んで扱いやすくなった商品ですが、包む時の想いは味と同じく“昔も今も変わらぬまま”のヤマサちくわです。
昭和39年に開通した東海道新幹線の「こだま号」停車駅となった豊橋駅。「窓の開かない電車」がホームに入るようになって、ヤマサちくわの立ち売りも姿を消し、老朽化が進んだ民衆駅の改築活動がスタートした頃に登場したのがおなじみヤマサちくわのテレビCM。0系新幹線が豊橋のホームに着き、開いたドアから勢いよく飛び出す弥次さん喜多さんと、「昔も今も変わらぬ旨さ。これだ!豊橋名産ヤマサのちくわ」という言葉を覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。現在放送は終了していますが、このCMは40年以上にわたり放送されました。
豊橋駅前 昭和45年
現在の豊橋駅
豊橋駅コンコース
豊橋駅はその後昭和45年、平成10年と2度にわたって大規模なリニューアルを行い、日本初の民衆駅から半世紀たって現代に続く新しい姿に生まれ変わりました。鉄道、駅とともに歩んできたヤマサちくわもまた、伝統の味を守りつつ新たな歴史を作ってまいります。
(掲載日:2010年11月)